出会いを大切に着実経営、地域経済発展へも貢献

森田さん

先輩インタビュー:0017 起業:社史編纂会社経営

森田 弘美(もりた ひろみ)さん

「社史制作をとおして哲学と博愛・貢献を具現化する」 株式会社グループフィリア経営

■ 今は何をしてらっしゃいますか? 現在のお仕事を教えてください。 

富山市で北陸3県の企業様の社史制作の小さな会社を経営しています。メイン業務は社史ですが、社史はスポットなのでベースに社内報や機関誌など定期的に発行するものも取り扱っています。 従業員は正社員・パート従業員4〜5名 、私は会社の経営だけでなく実際の編集やライターの業務もこなしています。

また、「北陸経済連合会」や「富山経済同友会」で地域経済発展のためのお手伝いもしています。

■ 前職ではどんなお仕事をされていましたか?

会社を自分で立ち上げる前は編集プロダクションに勤務していました。そこでライターとして社史を担当していたので、それが独立後の仕事に直接結びつきました。

■ 前職を辞めたのはいつですか?

41歳で退職しました。

■ なぜ、今の道を選んだのでしょうか? 

大学を卒業して最初は東京都内の出版社で編集の仕事をしていました。出産で仕事を辞めたのですが、結婚生活が上手くいかず、30歳のときに当時小学校1年生の息子を連れて実家のある富山に戻ってきました。

富山に戻って仕事を探さなくてはと宅建の資格をとったりもしたのですが、この仕事はあまり好きになれず、結局、前職の経験を活かして編集プロダクションに就職しました。

とにかく認めてもらうしかないと男性の倍の仕事をこなしました。編集の仕事は労働集約型で徹夜も日常茶飯事でしたが、その甲斐あってか大規模な仕事を任せてもらえるようになりました。社史の仕事もそのひとつでした。もともと「書ける編集者」をめざして知人たちと『富山県女性史』を共著して出版していましたので、社史を書くのは自然でした。

社史は時間と手間がかかる仕事なので他の人がやりたがらなかった、ということもあったと思います。私はライターとして創業者や経営者の方たちの経営理念や戦略が聞けるのが魅力でした。

ところが同僚のなかには女性が活躍することを良しとしない人もいて、徐々に、このままここにずっといても仕方ないかなと考えるようになりました。辞めるまでは葛藤がありましたが思い切って会社を辞めました。

思いがけず、現役時代に培った人脈のおかげで仕事はすぐに入ってきました。ただ、仕事相手が企業なので契約を交わす際、個人ではまずいと、会社を立ち上げました。

■ 収入に不安はありませんでしたか?

富山は小さくても基盤のしっかりとした会社が多いので、そんなに不安はありませんでした。

一方で、地方で社史の仕事だけでやっていけるのかと周囲で心配してくれる人もありました。県内にはすでに編集プロダクションは複数あり、私は後発なのだから差別化しなければ生き残れない。「なんでもできます」よりは、特化した方が、あるいはニッチを突けば生き残れる確率は高くなる。 問題は何で差別化するか、自分の得意を極めるとすれば、私自身が面白いと感じ、前の職場では誰もやりたがらなかった「社史編纂」だと考えました。

社史

それに社史なら作業工程が多いので金額も高い。数がでなくても、やっていけるのではと。それで「社史専門編集プロダクションで行こう!」と決断しました。

また、下請けではだめだと思い、直接企業から仕事を受けることを目指しました。有難いことに評価いただき、ご紹介いただくことも増えました。当然波はありますが・・・

■ セカンドキャリアを考えて、そのための準備を何か始められましたか?

特に意識したのは、人との出会いを大切にすることでした。人脈を培うことは大切ですが、人脈は意識してつくれるものではありません。そのため、さまざまな人との「一合一会」を大切にしました。

■ 今は地域で活動されていますが、地域で活動することは以前から考えていらっしゃいましたか?

大学進学で東京へ来たのですが当時は戻る気はありませんでした。富山は女性の進学率が高く、県外へ進学した女子学生が戻ってこないのが当時から問題でした。私も上京したとき、東京はなんて明るいんだろうとカルチャーショックを受けました。日本海側の地方の街で地味に真面目に暮らしていた者の目には、都会がとても魅力的に映り、ずっと東京にいるつもりでした。

ほんとうは富山の方が生活の質も高く、とても魅力的で仕事もあるのですが、当時はそんな風には考えられませんでした。 たまたま個人的な事情で戻ることになりましたが、 実際、私が大学を卒業した頃は女性の仕事はあまりなかったと思います。

■ 地域での活動に障壁はありませんでしたか?苦労されたことは?何が課題だと思われますか?

富山には、転勤族を「旅の人」と呼ぶなど排他的だった時代があります。今は昔ほどではありませんが、それでも地方都市には東京へのあこがれ、東京の人に対するある種の劣等感みたいなものもあります。その裏返しなのか、東京から来たということだけで崇められ、近づきがたい雰囲気になる場合もあり、なかなか複雑です。地域コミュニティに入るのはそう簡単ではありませんが、これもやり方次第だと思います。

私の場合は他に選択肢がなく地域で働くことになりましたが、結果として富山に帰ってきて良かったと思います。ただ、バックも何もなく地域で起業するのは、認められるまでが大変です。これは地域に限らないかもしれませんが・・・

■ これまでに試行錯誤や苦労した時はありましたか?  今、抱えている問題などあれば教えてください。

独立して2年目に事務所が手狭になり事務所を建てようと金融機関に融資の相談に行きましたが、そのときに「顔を洗って出直してこい」と言われました。男女雇用機会均等法ができたばかりの、30年も前の話ですが、地方で女性の仕事は教師ぐらいしかない時代、女性の起業家なんて相手にされませんでした。最終的には政府系の金融機関が融資してくれたのですが、あの頃はそんな時代でした。

今は、おかげ様で仕事も順調ですが、いつまで頑張れるのか、業務の承継が現在の課題です。スタッフはいますが、ライターは私だけです。これまでも後継者を育てようと候補者もいたのですが、なかなか簡単ではありません。

■ 今の生活に満足されていますか?

たいへん満足しています。もちろん仕事には波がありますが、この30年夢中でやってきて振り返ると、独立して本当に良かったと言えます。今の事務所の窓から立山連峰が見えるのですが、晴れた日などはとても美しいです。

仕事をしながら自然を感じられるのは素晴らしく、あのまま東京にいたら今のような生活や今のような心持ちになれない。富山だったからこそで、ラッキーだったと思います。経済的にも正解でした。

■ 後輩にアドバイスするとしたら?

セカンドキャリアにチャレンジするのはとても良いと思います。自分がやってきたものをどう活かしていくかですね。

やる気があればそれを受入れない地域はありません。頑張っていれば応援してもらえます。逆にやり方次第では「女性だから」がプラスになることもあります。私は社史を女性が書くという意外性で応援していただけました。

北陸は女性の就業率も高く、女性経営者も多いところです。街も魅力的で生活レベルも高く、家の広さや持ち家率も高い。生活しやすいと言えます。地方の良さは住んでみないとわからない。仕事はあるので「地方」だからと敬遠せず、もっと探してと言いたいです。

■ 今後の展望についてお聞かせください。

以前は65歳で仕事は辞めるつもりでしたが、3年先まで仕事は決まっているし、後継者も育てていない。スタッフがいる間は頑張ろうと思っています。現在68歳ですが、動けるうちにいろいろ活動したいです。

講演する森田さん

今はコロナ渦で中止されていますが、再開したら所属している北陸経済連合会や富山経済同友会の海外視察にもまた参加しようと思っています。女性会員も増やしたいと思っていますし、ひとり親の北陸移住の支援にも力を入れようと思っています。


また、これまで北陸3県の社史を制作してきたので、集大成として論文にまとめたいと、金沢大学大学院で地域経済学を学んでいます。仕事で忙しくなかなか時間がとれないのですが、これもなんとかまとめたいと思っています。

■ 最後に、働くということは貴女にとってどういう意味を持っていますか?
なぜ、働いているのでしょうか?

「働くこと」は、私自身が「生きること」であり「活きること」でもあります。 自分を活かしながら、できるところまでやっていきたい。仕事は挑戦するためにあると思っています。 ひとつひとつ新しい発見があり、 この歳まで活かしてもらえることが何よりも嬉しいです。戻ってきて仕事をさせてもらって幸せです。富山のおかげ、富山ならではだと思っています。

株式会社グループフィリアのWebサイトはこちら
https://philia.ne.jp/

■ 編集後記

実際にはいろいろご苦労されてきただろうに、それを感じさせないお話でした。人との出会いを大切にして、経営を安定させるためにあえて「社史」という受注単価の大きな仕事を柱に据えたなど、企業経営者としてさすがだと思いました。今は満足されて、ご自身やご自身の会社のことだけでなく 地域経済の発展のために尽力されている森田さんですが、富山の魅力を語るときの言葉の端々に森田さんの「富山愛」を強く感じたインタビューでした。(2021年1月28日オンラインにて)